昭和42年9月20日 朝の御理解
金光様のご信心を続けておりますと、確かに何時の間にか病気災難の根が切れて、おかげを頂くのでございますね。いつの間にか病気の根が絶たれ、災難の根が絶たれ、いわゆる、本当の幸せの基礎というか、幸せの土台というものが段々でけて来る。
それが、その、気がつかんでおりますけれどもね、それが十年とまた十五年というふうに、その、信心を続けられておる内に、なるほど、本当におかげを受けておるもんじゃあるな、私は金光様の信心をするようになって十年になるけれど、十五年になるけど、本当に一家中のものが病気もせずにおかげを頂いてきたなと言う事を改めて感じたのございますね。
確かに、教祖の神様が御理解に下さいますように、病気災難は根の切れるまでとこう仰る。確かにですね、様々な難儀と、難儀と言う事だけじゃないでしょうけれども、それは良いこと悪い事につきましても、その原因がないと言う事は絶対ありません。こういう原因があってこうある、病気なら病気をしなければならない原因が必ずある、人にたんをかけられると言う原因が必ずある、損をするとか得をするとかいうけれども、ね、問題でもそうです。そういう、例えば困ったなら困ったと言う問題がです、偶然、突発的に起こってくるものじゃないです、もうそれまでにはずうっと根があり元があるんです、ね、そこんところがです、信心をさせて頂いておりますといつのまにかその根が絶たれるんですね。病気災難は根の切れるまで、井戸は清水になるまで、井戸替えをするのに7分目も8分部九部目というようなところで止めてしまうから何時までたっても水がにっごておるようなものじゃとこう仰る、だから、信心が続けられていくと言う事はですね、もう本当にそういうようなおかげの受けられる事なんです。
昨日は、ここの合楽会の日でございました。皆さん、いわゆる、熱心な話が出たんですけれども、その中に丁度、御祈念にお参りしだしておりました久富勇さん、それから善導寺の原さん、それから久富繁雄さんお参りし合わせておりましたから、最後までお付き合いして頂いて、一緒に話をして下さったり、聞いてくださったりしておる内にですね、なんの話からやったでしょうか、本当に善導寺の原さんだって同じ事、久富さん達でもそうである、繁雄さんのお宅でもそうである、始めの間は本当によう病気をした、信心させてもらってどうしてこげん病気せにゃんならんじゃろうかというように、特に久富繁雄さんあたりなんかは一年余りは様々な病気が出たんですね。そして、改めてその夕べお話をしながら自分もそれを感じられたといい、私もほんにおかげを頂いておるもんじゃあるですなと言う、その三人の方達が十何年間信心を続けられていきよるうちにです、ほんに医者にかかった事がない、薬を飲んだことがない、注射を打って貰ったことがないと言うようなおかげをそれぞれの家族に頂いておられると言う事ございます。
なるほど病気災難が根が切れるんだなと言う事が分かりますですね。それはなるほでもその十何年間の間にはちょっと頭が痛かったとか、風邪をひいたとか、ならちょっと災難なら災難といったようなものはあったことだけは間違いがないのですけれども、それでも人に頼んでどうはしなければならんということはない、それだからというて、さぁー医者だ、薬だ言う事ほどしでもない、本当にどのような場合でも医者だ薬だと言うのではなくて、御神米とお神酒さんでおかげを受けてきたと言う事。
まあ、最近、久富勇さんのお宅なんかでも御自身がいろいろ体が足が痛んだり手が痛んだりされる事がある、まあ、全然お百姓が出来ないというほどに痛む事がある。その事をこの前お届けされた時にですね、その事はね、神様にお礼を申し上げる事だとこう仰る。その時の御理解ちょっと私、説明いたしましたけれども、そう言う意味の事を頂くんです、足が痛い手が痛い、けれどもそれは神様にお礼を申し上げる事だと、もちろん薬、医者どんなんかと言う事じゃない、ね、例えばそうやって信心を続けていくうちにもうそれがあるんですけれども、はぁーなるほど根が切れていきよる、元が絶たれていきよる、いよいよ根から、根からのおかげの頂けれるものがでけていきよると言う事をです、その中に感じる、ですからこそ、お礼を申し上げなければならいと言う事が分かって来るんです。
なら、今日、これだけたくさんおられますけれどもです、なら五年と十年と信心を続けられたところ、確かに皆そのようなおかげを受けておると言う事なんです、ね、病気災難は根の切れるまで、どうでしょうね、私共の生活の中から、その病気災難の根が切れて、切れると言うだけでも有り難いじゃないですか、ね、そこから、今度は根が切れるのじゃない、今度はおかげの頂けれる元が育ってくる、でけてくる、やっぱ根の切れるほうが先ですね、いわゆる、めぐりのお取り払いのほうが先です。それがですね、気がつかないです、十年、十五年たって、こうおかげを受けておる、はぁーほんに自分のところはおかげを頂いておるなぁ、もう十年間お医者さんのお薬一服も飲まんと言うような改めて気がつくほどのおかげを受けておると言う事をですね、私も昨日、その、合楽会の中でその、ひょんな、私の話をです、その、聞いたり、させて頂いたりしながらそれを感じたんです。
昨日は合楽会に出られるある方が、いわば、体験発表しておられますね、どうもこの頃お参りしようごつなかった。もうここに十五日間、二十日間ち言うものはご無礼してから、もう参らにゃんと思うばってん、もう全然参るごつなかち、だから、ここで信心なベテランの方達がおられるから、皆さんもそう言う事がありますかと言う、そういうその、発表をしておられました。
ところがです、ちょうどここ何日間の間にお孫さんが二人ながら病気をされる。丁度ここのお月次祭の夜におかげを頂いておられる、帰ったら下の孫、幼稚園に行っておるお孫さんが四十度からの熱がある、それで、その自分も、はぁーこれはお気付けを頂いておると言うふうに、まあ、ここにお参りをされるようになってからわずかの日数ですけれども、そいう事を感じられる、それでもやっぱりお参りしようごつなか、ところが、あんまり、昨日の昼もその方参ってみえましてですね、お孫さんを連れて参ってみえたんですよ、それで御神米を頂いておったから、御神米を頂かしたところが、まだ熱は三十九度位あるばってん、気分がいいというて遊ぶという、遊ぶという事ならば、ならお神様に参ろうと言うて、まあ、昨日、昼参ってみえたんです。そして、その事をやっぱ言うておられました。もうこの頃ご無礼をしましてからこんなお気付けを頂いた。ね。
ところが、夕べのお届けの中に聞かせて頂きますとです、自分が月次祭から昨日の昼から夕べお参りさせて頂いておるうちにです、子供達が元気がなったおかげを頂いて、ね、信心が本当に嬉しゅう楽しゅうばっかりできよるものならですね、だれだって十年なら十五年でも三十年でも続けられるんですけれども、その中間、その合い間にですね、もういっちょんもう参ろうごつもなかと言う時が必ずくるということですよ。ね、そう言う時こそです、けれども本当に根が取られていきよるのであり、祓われていきよるのであると言う事を一つ思わなければいけません、そこんところが私が大事だと思う、そこんところの辛抱をし抜かせて頂くと言う事が大事なんだと言う事。
十年も十五年も毎日こうやってお参りをしよるなら、そんなら皆さんはどうですかというわけなんです。私共もやっぱり十五年なら十五年信心させて頂きよるうちには本当にお参りしようごつない時もあった、朝参も御無礼しようかと言う時代もあったんですけれども、そこを辛抱抜かせて頂きよったらこう言うおかげを頂いておりますと言う原さんなんかの話があっておりました、ね。そう言う一の、まあ、スランプ状態といったようなものがですね、お互いの信心過程の中にあるんですけれども、そこんところを大事にしていくところのおかげを頂いて行く人の上にです、必ず根が取り払われていくだろう、いつもスランプ状態、仕事にはいつも失敗ばかりしてから、そこで、中絶したり、また始めたり、中絶したり、また始めたりといったような事ではです、いつまでたっても水はにごっておるような状態が続くと言う事です。
信心をさせていただいてもですね、そこんところを、何時まで参らんならんじゃじゃろうというようなものじゃなくて、信心そのものに一つ有り難いというものを分からせてもらう、いつも神様が交流しておる、その方の発表じゃないですけれども、ちょっと無信心なりよると、神様のほうが、ほう、どうしたかどうしたかと支えて下さってでもです、この気付を下さる、頂けれるというようにです、おかげを蒙ってまいりますと、失敗しかっておるところをまた続けていく事が出来るのです。
このお気付けも長年信心をしておっても、もうお気付けも頂けんと言う人もあるんですよ。中にはまたこんな発表をしておられる方がございました。先日から、なんと言うですかね、旅行にこの部落からいかれたんですね、二見浦が、の方ですね、出雲大社のほうからこう見物に回れたんです。車窓から見る様々な素晴らしい初めて見る景色、特に二見浦の方にまいりますとこの辺なんか海があんまりありませんからね、もう広々とした海の中に様々な景色が展開してくる、はぁーなんという素晴らしい景色じゃろうかというて皆がながめておる、その中に、先生、私だけが、もう、どうもしようもないように感動を覚えるちいう、喜びが湧いてくるという訳なんです、どうした素晴らしい景色じゃろうかと言うてもう涙が出てくる、あんただん景色がよかち言うだけで、どうもなかですか、はぁー景色がよかち言うだけで、私はそれを聞かせて頂きながら、信心をさせていただいておることは素晴らしいなあと思うのですよ。
皆さんどういう訳だと思いますか、金光大神のお取次ぎを頂いてね、天地の親神様のご信心をここでさせて頂いておる、いつも天地との繋がりがある、天地との交流がある、天地と通う、ね、だから、その天地と、実を言うたら神様がその全部の氏子にやってやる、信心があろうがなかろうが、けれどもおかげをおかげとこちらに感じきれない、それは神様と私共の間に交流が成されていないからなんです、通うていないからなんです、ね、天地の親神様のおかげを頂かなければ、もうそれこそ、一分間も生きることができないと言う事なんです、神様のおかげを頂かなければ、ね、水一滴が人間の知恵、力では作る事が出来ないと言う事なんです。どんなに科学が進んでも学問が進んでもです、一つの米ですらが人間の力だけではできないと言う事、神様のおかげを頂かなければできることじゃないと言うような訳があると分かっていて、おかげであると言う事が分かって来る。
私は毎朝ここにつく前に必ずそこの御縁から天を拝し、地を拝する、( )、だから、五時前にみよきゃここで私が御祈念をしよるとが分かる、ね、天を拝み地を拝する、ね、私共はですね、神と会いたいと思えば庭の口に出てみよ、空が神下が神と言うような神様を私どもは信心させていただいとるんですよ。いつも天地と繋がっておるんだ、大天地に対する小天地、その方が言われるように、まあー、なんという素晴らしい景色だろうかと、ね、思うただけで感激する、他にたくさんまいっておる人達は、ほいちょっとほんに素晴らしい景色じゃあるなこうというておるけれども、なら感激とまではいかない、それは素晴らしい景色というだけのこと、素晴らしい景色だなとこう思うたら、もう、神様は、ね、感動なしましておられるわけです、神様が喜んでおられる、その喜びがいつも交流しておるもんですから通うて来るんです、それが、例えて言うならばです、素晴らしい景色ではない何でもない、言うなら、石ころばかりの道であったり、やぶばっかりの山であったり、そう言う中にでもです、その石ころ一つの中にでも、やぶの中にでもです、天地の親神様の働きと言うものが生き生きとしてあっておると言う事、天地の親神様の働きの中には無駄と言うものがないと言う事をです、分からせて頂いて、そう言うものにでもお礼が言えれる、路傍の石とか、路傍の石でもお礼が言えれるような心持。ね。
やぶの名もわからないらない雑草の中にでもです、天地の親神様の働きが生き生きとしてあっておると言う事、その方とだから私はなしました、ここに石井香(かおる)さんというお花の上手な人がおります。この人はお花の稽古始めでした、その人はもう本当に師匠が天才というぐらいに一つ才能を持った人でした。博多の何とかのホール、はら生花の展覧会のような事があった時に、出品するように師匠から言われた、そして、ここにお伺いして、まだ娘時代ですから、お伺いにまいりましたところが、自然の、いわゆる、花屋で買った花ではなくて、山に登って、山でその花の材料を見つけてこいと、そして、出したらよかろうという事でしたが、確か、その時には出品させて頂いてから最高の賞に入りました。そん時にはですね、その山に登ったんですよ、そして、いわゆる、やぶの中にたったんですね、花の材料を切ろうと思うて、ところが、その香さんが見るところにはですね、もう( )どのやぶであろうが、どの草であろうが、もうあれも草、花の材料になり、これも花の材料になる、もう枯れたこの葉でさえ素晴らしく見えたとこう言うんです、ね、何でも一つの名人とかといわれるようになりますとですね、もうすべてが花の材料に見える訳です。花の名人の人には、あれも生かさずにこれも花になる、これも材料になると思うたらです、きばさみをもったらですね、声上げて泣くほどに感動が湧いてきたち言う、天地の親神様と言う方はですね、そう言うお方なんですよ、ね、あれも花の材料になる、これも花の材料になると、そのヤブの中にたって思わせて頂いたらきばさみをもったまま泣き出してしもうたとこういう、石井香さんが泣いたのじゃない、神様が感動ましましたのである、なにげなしに作ってあるのようにありますけれども、その一つ、一つのその生命と言うものがですね、神様の無駄と言うものがないと言う事を感じたと同じこと。ですから、私共の周囲にあるこのものはイランと言うようなものです、いわば、災難であろうが、難儀であろうがです、ね、この難儀もこの災難もこれは必要なものである、ね、この難儀があってこそ、私が磨かれるのである、これによって私が信心が分からせて頂くのであると言う時にです、それを気付かせて頂くところにです、雑草の中にあって、いわば、あれも花の材料になる、これも花の材料になると言うて、思うのと同じと事ですから、神様が感動なしまさらんはずはない、神様が喜びなさらんはずがないわけなんです。
私共が今言うように、景色がよかのつだけが素晴らしかち、おかげを頂く時は、はぁ神様っちゃ不思議な力もっておる神様だなと言う事がわかるのじゃなくてです、それから反対に困ったような問題でありましても、神様の働きに無駄がない事が分かって来ると、その事に対しましてもお礼を申し上げなければおられん、そのことに対しても合掌しなければおられない,そこに神様の感動が神様の喜びがある、その喜びが私共に伝わってくるんです。ね。
私共は日にち信心の稽古をさせて頂きまして、それこそまだ病気の根の、根も切れていない、災難の根も切れてない、いつどう言うような事が起こって来るやら分からないというような、いうなら状態の中にありましたけれどもです、そう言うどう言う中にありましても、例えば、なんと言う素晴らしい景色だろうかと言うように、なんと言う素晴らしい神様の働きだろうかと言うような分かりながらです、神様の交流を測りながら、神様から喜びを頂きながら信心を続けられていく、それでもやはり生身をもった人ですから、たまには参るごつないいうような事もあるけれども、そこんところを信心辛抱しぬかせていただきよると、その向こうに今までかつて味おうた事のないような信心の喜びと言うものが待ち構えておる、おかげが待ち構えておる、そこんところをそう生かせて頂くうちにです、病気災難は根の切れるまでと言うようなおかげが頂けれるのじゃないでしょうか。
確かに金光様のご信心をさせてまいりよりますとですね、確かにそう言うおかげが受けられると言う事でございます、そして、病気災難の根が切れた、井戸水が立派な出来た、そこから限りないおめぐみが湧いてくるように、井戸が清水になるまでのおかげを頂かせてもらうところにです、汲めども汲めども尽きぬおかげが頂けれる基礎が、元が出来上がる、このことば一つ頂きゃよいというのじゃないのです、ね、お互い病気災難が根の切れるまでのおかげと、信心辛抱が必要である、その信心辛抱をしておる中にもです、本当に有り難い有り難いと言うばっかりじゃない、本当に泣く泣く辛抱しなければならないような事もあるけれども、そこを辛抱しぬかせて頂きよるうちに、丁度井戸替えをするようにです、ね、もうそれこそ、根から根からのゴミあくたかでらせて頂くところから、後はきれいな水を出てくるようなおかげが受けられる、それを七部目、八部目でやめるから水はいつまでたってもにごっておるようなだというようになるのじゃないでしょうかね。
夕べの合楽会の中から、そういう最近、皆さん、聞かせて頂きながら今朝の御理解を頂きました。どうぞ、皆さんでもお参りしようごつなーかごつなってくる時もある、ある、もうある、けどそう言う時こそが私は辛抱しなければならない時である。その事こそがいよいよ御利益・・・。(途中切れ)